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浅田真央、ソチの涙、そして純真な笑顔:偉大なる真央

 JUGEMテーマ:スポーツ

あれから、4年。
真央は、またも涙した。
しかし、それはもう無念の涙ではない、自己にとって、最悪のショートとベストのフリーとの、その両極にひきさかれた、自分の非自己(おさえきれない感情の表出)と自己とのおりあいへの涙であり、そのあとの自分自身へもどってのさわやかな笑顔であった。
はりさけんばかりの、悲しさの顔の歪みをじっとこらえきって、息をのみこんで、すっと真の純粋な笑顔にもどった。この一瞬のきりかえもすごい。
観ているこちらにも、どっと涙があふれでる。
演技の迫力に、うちふるえ、めがにじんではくるが、ぐいぐいとそのジャンプの成功に、ひきこまれていく、ステップのときには、もう、この子はほんとに、ただただひたすらすごいという感慨がわきだしてくる。ロシア放送で師タラソワは、フィギュアを観てはじめて泣いたとのべ、天使が舞っているといったが、ほんとにそうだ。おそらく、日本中の半分が、そして世界が、感動にふるえていたであろう。もう、オリンピックの順位がどうのではない、その枠をとびだして、ただその固有の舞いに、氷をけるちからにふるえていた。こんな演技は、他の選手がなしえない、およびえないものだ。タラソワは、スパシーバ、ありがとう、真央ほんとにありがとう、と感謝をのべ、そして師らしく、己に打ち勝った真央を讃えていた。
だが、現実へもどる、点数がつけられる、それはしかし150点をこえるものではなかった、既存の点数規準等をはみだしてしまう<もの>、その演技は愚かな要素平均化された規則規準点数ではつかみえないものだ。そして、だされた点数への賞賛と溜め息、メダルにはとどきえないのが、想定できるからだ。無難な美演技をまとめあげていく後続の、その水準からはるかにとびだしている真央の表現と技、迫真の美技は、世界のだれもが知っている。6種類の3回転、8回のジャンプ、だれひとりなしえない、それが採点不可能の閾に疎外されて、宙づりにされる。もう、そんなものどうでもいい。前日の、信じがたい失敗に、最悪の局面にたたされた、そのとき、もうメダルへの絶望が、バンクーバーからひきずっていた規制が、とんでしまった。できるにきまっていることが、なされえなかった、その呪縛を、「オリンピックには魔物がいる」と一般にいわれる、そんな魔物さえ絶望、絶句するようなできばえになってしまった。そのとき、こちらは、あれやこれやの推測の根拠さがしで、自分をなぐさめる言葉を自分へはきちらしながら、ああ、という嘆息にふけるしかない一日がすぎていく。
日本中のあちこちが、まず、ショートで泣いた。フリーを観ようと最終電車にのるべく走らせたタクシーのなかで、今朝の練習がうまくいっていないというニュースが流れたとき、運ちゃんは、昨日は泣きじゃくりましたよ、とつぶやいていた。「今日はほんとにどうなるんでしょうね」、とだれもが、最悪と最善の両極を予想しながら、定まらない情感にういている、24時間であった。
そのとき、真央は、宿舎で、自分の幼いときのビデオや演技をみながら、考えて考えて考えていた、とふりかえっている。おそれと不安と,戦っていた。
トリプルアクセルを封印してしまえば、かつて我慢してそうしたように、メダルは確実であろうが、金にはならない、しかしながらその金メダルというより、幼く11歳にして3Aを飛べてしまったことから、最善と最悪をかかえこんでしまった真央は、ただ一途に、挑戦へのあくなき戦いを自己へ課してきた。休養すればいいのに、それどころか基礎から見直すなどの逆向を課し、かつてないどん底状態へおちいりながら、飛躍へむけてひたすら錬磨してきた。「完璧」ということがほとんどありえない閾への挑戦だ。かつて、伊藤みどりがなした3Aの遺産をたやさないためにも、と誰もなし得ないことをしつづけてきた。ライバルのキムヨナも3Aに挑戦はしたがなしえないと、滑りをきりかえた、そのドキュメント映像は跳べないで転がるキムヨナの苦痛を描いていた。とてつもないことなのだ。
だが、もう20歳をこえたそこには、かつての楽しいから跳ぶという「快」はない、「苦」が先行する身体の成長が不可避にもたらす自然の重力との人為的な戦いになってしまった。そのなかにダイナミズムと美との相反を共存させる、不可能さへの挑みである。
それがもたらす乱調と完成との戦いが、ソチへそのままもちこまれた。
フリーで、真央はひるまなかった。
最悪の失敗をしても、翌日、最善の閾へ、真央はとびだした。
それを観た時、もう選手権やオリンピックなどの、測定・判定の評価枠に、真央はいない、ただ<一>の存在表出しかそこにないのが、見えてきた。審査員の規準になど、その演技はもはやはまらない。なにが、不足点だ、冗談ではない、分節化された規定測定の滑稽さだけが、非情に作用する、そんなものはもうどうでもいいという閾へ、真央は舞い降りたのだ。バンクーバーでは、まだ点数の公平・不公平の枠内にあったが、もうソチでは、無関係の閾へとびだした。グループ別の規制がかかってしまうなど、審査員が演技自体をもう観れない、そういう閾へ真央は舞ったのだ。
一方で、日本スポーツ界に巣くう下品な下卑た政治崩れの元首相から、名無しの自分が自分であることが出来ない事が自分だと転倒している2チャンネルのゴミ糞から、亡国の言動が吐き気を吹き出そうと(必然の負の作用ではない、ただの汚物・腐敗物、卓越さからのおちこぼれである)、多くのひとたちが、素直に感動する世界に、真央は雄々しく美しくラフマニノフとともに舞った。美は、揺れる自由の閾を超克する!
高橋も羽生も、泣きながら会場で応援していた。世界のフィギャアのプロたちも感動していた。
真央は言う、ジャンプひとつひとつに、自分が世話になった人たちへの感謝をこめて跳んだと、これは母に、これは父に、これは姉の舞に、これは佐藤コーチに・・・・また、泣いてしまうではないか、繰り返される映像を見るたびに、その深さがじんじんと響いてくる。ソチで、至上の美しき感動として、それは永遠に残っていこう。
バンクーバーのあの悔し涙は、ソチで「うれし涙」に変わったと、真央は言う、自分がなそうとしていた理想を実現しえたからだ、と。ひとえに己になっとくいける閾へたどりついたのだ。
「偉大なる真央」、それは歴史上にのこる美の遺産になろう。
プルシェンコの4回転は、男子フィギュアの歴史を変えたが、真央の超絶は、歴史を変えてはいくまい、ただ到達不可能な閾へ孤高にそびえ立つ。
わたしのごとき老人さえ、若き真央の偉大さには、こころから敬意をおぼえ、賞賛する。天使は神でも人でもない、その間にあって、神と人を祝福する。多くの人たちが、真央に感謝のこころをのべ、勇気をもらっている、と讃えるのだ。わたしは、ただただ、真央の偉大さに敬服する。このような究極の存在が、現代日本に出現したことを素直に驚く。驚きは、自覚を覚醒させる。小さな子どもも、男女も、老人も。
だれを、なにを「偉大」とみなすかは、その人の社会的な布置を表象する。
真央を偉大とすることは、純粋さ、純真さ、そして不可能さへ挑戦する感動、を讃える布置だ。
真央は、挑戦し,戦いつづけた。その戦いは、自分自身の限界への戦いであり、他者との比較の戦いの水準をこえてしまった。
これから、真央の場所は、世界選手権をつきぬけて、新たな場所へとうつるのだろうが、もう採点という愚かな規準規範世界におさまらない、それは、天使の羽をつけて自在に愉しく舞う、享楽の閾へとはいっていくであろう。
なによりも、真央自身のすがすがしい顔、笑顔、もうそれでいい。
閉会式で無邪気にはしゃぐ真央にもどった。それでいいのだ。
だが姉の舞は言う、帰ってきたなら、もう泣いていいんだよ、我慢してこらえなくていいんだよと、真央は姉の胸のなかで、ひとしれずなきじゃくるだろう、ソチでたえていたものをはきだして・・・・そして、わたしたちの前では、あの純真な真央スマイルをみせてくれる。。。。
偉大なる真央、それは永遠に語り継がれていこう。
(内戦状態になっているウクライナへ、黙祷をささげた金メダルのウクライナ選手たち、また競技を辞退して帰国した選手、若き偉大なるgoodな存在に、わたしは敬意をおぼえる、それは政治表象ではない、人としての尊厳ある行為だ、非難、禁止すべきことではない。)
| 山本哲士 | 21:55 | - | trackbacks(0) | pookmark |
原発避避難区域20km圏内の中へ:放射能除染と場所文化からの復興
 JUGEMテーマ:学問・学校

[アーカイブスとして、大事なものを資料として再公開しておきます。]:原発避難区域

2月24日、福島駅にてスタッフと集合、放射能1.1マイクロシーベルト。高い。
レンタカーを借りて、南相馬市へと向かう、約1時間半。交通機関がない、仙台からバスが走っているだけ、交通は寸断されたままだ。
福島駅をでると、放射能は下がっていく、ほとんど0.1〜0.4ぐらいだ。雪が降って、封じられているせいなのか、低い。飯館を通っても、0.5ぐらいであった。
南相馬市に到着、市役所から「応急対策車輛通行許可書」を発行してもらう、世界会議を開くことでの準備を協働してすすめているため、信頼はされている、何の問題もない。南相馬市の原町で、0.24であった。30km域内である。

1.検問前にて防護服装着
いよいよ検問の前にきた。20km域だ。

検問の前に、セブンイレブンなどがオープンしている、その駐車場にて、防護服を装着する。
20kmというただ物理的に地図の上でコンパスで引かれた、無意味な線を象徴するように、コンビニが開かれており、その100m先からは立ち入り禁止である。放射能は、まったく低い、東京とかわりない。もちろん検問の警察官たちは、防護服などはきていない、必要ない。

この防護服、1500円。これで、被曝を回避などしうるわけがない。ただ、ほこりのように舞う放射能の付着を回避するだけだ。マスクも、気休めのようにしか見えない。靴の上には、足形になっているビニール袋をかぶせるだけだ。すべて、使い捨てになる。目には、ゴーグルをはめる。
誰が誰だか、わからなくなるので、胸元にマジックで名前を書く。

2.避難区域へ突入、野馬沢へ。
いざ、突入である。気が引き締まる。もちろん、被爆などは覚悟のうえだ、何が起こるかも分からない。

ここから南下、、浪江町、双葉町をへて、原発のところまで向かう。
広大な平地、津波はここまできた。検問を通り過ぎた途端、すべてはあの3.11のまま、異常である。放射能の値も低いのに、一歩もはいれない、まったくおかしい線引きだ。
野馬沢の海岸へまず、行く。舟はうちあげられたまま、家々は崩壊したままだ。


海岸もそのまま。野馬追では、ここで馬を清めて、小高城へと集結する。

3.小高神社へ
野馬追の馬たちが集結するのが、小高神社。14世紀に作られた、妙見信仰の神社である。灯篭は崩れ、鳥居も崩壊している。

だが、社殿は、確固として立っていた。

昭和12年の千年祭の奉納額、勇壮な馬の絵が飾られている。
入口の鳥居にはひびが入り、いまにも崩れそうであった。
南相馬の復興は、この神社の復旧なくして始まらない。場所の歴史文化の拠点である。
周囲は、当然、人ひとりいない、信号機の点滅だけが不気味だ。

4.村上城からきよはし城跡へ
わたしたちの視察の目的のひとつは、相馬氏の場所文化の歴史から復興を考えるというところにある。
南北朝での選択、関ヶ原の戦いでの選択、伊達と上杉とに挟まれて、相馬はきつい選択を、したたかに生き延びてきた、そして幕末の選択。この3つの危機、選択において、野馬追が場所文化の核に維持・存続されてきた。そして、いま第4の選択の時に在る。
除染は、こうした場所文化から切り離されてなされえない。

街中は、まだこうした被害のままだ。放射能は、0.2ぐらでしかない。

浸水したところに、白鳥たちが泳いでいた。

だが、その周囲は崩壊したままだ。

村上城は、丘の上にある、しかし道が崩壊していて、いけなかった。

5.浪江町から請戸港へ
街中では、全壊した家屋が、あちこちに在る。

請戸港は、太平洋岸の貴重な港である。防波堤は破壊され、漁港は完全崩壊している。大きな波がうちよせていた。

荒涼とした、平地をみていると、東北とはちがって、かなりの内陸にまで浸水している。

6.双葉町から大熊町、原発3km圏内へ
背景に原発がみえる。まだ、1.0ぐらい、ゴーグルで目を覆う必要はない。

ついに、3km圏内へと入る。

急に、線量計の音が激しくなり始める。
あっというまに30.0を超えた、汚染がまだら状になっているためか、線量計は数字が滅茶苦茶になってきた。小刻みに激しく音だけが、すさまじい。


第一原発の入り口である
防護服姿を、ここにきて始めてみる。異様だ。
周囲には、シェルター施設がおかれ、そこで作業員たちは寝泊まりしているようだ。
事故現場は、周囲からはまったく見えない。隠されるように作られていた原発。

北側へ回る、5号機の建屋が1部見えた。

南側へ回る。
4、5m程の崖。
このすぐ先が、原発事故の現場である。
そして、この崖の上の福島栽培漁業協会の施設が、完全にやられている。
10m以上の波がきている。

線量計は、針が振りきれている。

街中に誰もいない、暗闇の中、帰路につく。
作業帰宅の車であろうか、何台もいきかったが、街の灯りはついていない。
やがて、検問の赤いランプが見えてきた。コンビニの灯りが見える。

うがいをし、服をごみ袋に入れ、わたしたちは、福島駅へと向かった。

5km以内でも、線量計は高くて2.0や3.0ぐらいであった。10km内では、殆んど0.2~0.5ぐらいであった。まだら状にスポットがあるのであろう。
正確で緻密な測定をすべきだ。出来ることである。先進国日本が、あきれる。
いたずらな、円心上の線引きは、まったく意味ない。ひどいはなしだ。
海岸線に近い域のためか、あまりに、予想以上にひくかったので、緊張度合いが薄れていったのが実際である。
森林区域は、そうではあるまい。
ともあれ、面として一般化するのは、滅茶苦茶すぎる、多数の数m間隔の点で細かく測定すべきだ。

しかし、3km内にはいったときの線量計のすさまじさには、恐怖というより、見えない放射能の猛威に、わたしのようなアナログ人間は、ただ呆然とするだけである。かなりの被曝はうけていたであろう。

これをもって、なにかをしようとわたしはしているのではない、ただ、世界会議に参加する者として、実際の場に入らずして何も語りえないと、自らへの自らの関係として、圏内突入をした。
そこでは、ただ淡々と場をみていった。それしかしえない。
人がまったくいない街並みは、おもっていたほど不気味ではなかったが、ひたすら空虚であるが、言葉で語られうるものではない。

世界会議にあたって、わたしたちが作成したシートに場所住民の方たちからの、生の声を市が集めている。それを、ボランティアで英訳する方の協力もえている。ウェッブ上で、世界へ公開していく、ひとつのこさず、すべてを。

*マイクロ・シーベルト、ミリ・シーベルトなどの線量計のみが示す物質的現実は、現実性の感覚を欠いている、現実と現実性との関係が、日々の日常と反転している、恐るべき現実であるのに現実性が無いのだ。この汚染の現実に襲われた場所は、人が住めないのだ、現実に人が居ることができないのだから、現実性は無い、現実性は汚染場所から排除された、20kmの外部にある。この転倒に、人の存在は耐えられない。
浸水した水の場所に悠然とあそんでいた、白鳥やサギなどの鳥が、放射能を糞として撒き散らす、また土から放射能をすいあげた木々が、春には花粉でもって、放射能をまき散らす、そういうことがおきるのかどうかも分からない、現実性にリアリティが無い、しかし、汚染されている現実は確固として在る。
原発放射能は、人間の暮らしに、根元からの転倒をまきおこしている。
| 山本哲士 | 00:14 | - | trackbacks(0) | pookmark |
被災地のただ中に立つ:津波の「場所」被災であって、地震災害一般ではない:石巻から、気仙沼、陸前高田、そして大船渡へ(3)

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[アーカイブスとして再公開しておきます:被災地に立つ、全3回、2011.6]
陸前高田Rikuzen-takada
みわたすかぎりの広大な地域が、完全に崩壊している。
瓦礫は、区分されて、ビルの高さまで積み上げられている。
救援のクルマやダンプが、ほこりをあげて、何台もとおりすぎる。あの、取り残され孤立した病院が、茫然と形だけのこして建っている。
もう、鉄骨しか残っていない、壁は完全崩壊している。
集積所として、クルマの瓦礫が集められている。
瓦礫は、ビルの高さにまでなっている。
少し道が高くなったところからみまわして、一面、崩壊の真っただ中に立った。すさまじい光景としかいいようがない、地獄とかなんとかというようなものではない。
このぐちゃぐちゃなまだ、道端の取り残されたクルマや瓦礫な崩壊は、超現実などというものでもない。「瓦礫」という言表で処理されてしまっている、厖大な「くずれ去った物事」の総体。四方をみわたす、360度、なにもない、街総体の完全崩壊。瓦礫整備のための道だけが作られてはいる。
わたしはひとり、ぽつぜんと、そこに立つ。誰もいない、何も無い、ただずべてが崩れ去った平野。
ここは、まっ平らで、近くに山も迫っていないせいか、匂いはしなかったが、微塵がまっている。
そして、色合いは、いままでみた崩壊した村と違って、どんよりと灰色にかすんでいた。
水の引きようが無く、たまり水になっている。
津波到達の先端部分へ近づいた。
津波の先端、高台の家は残る。
はずれにくると、海が近い、防波堤は瓦解している。
先端のすぐ先で、子どもたちが遊んでいた。
共同トイレが無数に置いてある。
移動のさなか、ラジオで、内閣不信任案の論議をしている、ばかばかしい、虚しい。誰も、この現場に立っていない。ただ訪問して、機械的に手をあわせただけだ、立っていない、歩いて居ない、壊滅が見えていない、災害一般になっているにすぎない。
いくつか観れば、新たな津波対策のみの特別法案を、早急につくり、どうするかを場所ごとに即決できる。ひとつの場所を1日でできる。三陸のそれぞれの場所を、直接に訪れ、その場できめていけば、10日〜15日もあれば、すべて決められる。ほんとに何もしていない菅政権、永田町で、被災対策一般を、いじくっているにすぎない。無能と云うより、まちがいだらけだ、復興構想会議など、そのあとですればいい。
だがただただ、茫然と、眺めている、なにもできない自分。
しかし、場所津波崩壊であって、それを社会一般化などしえないという、自分の見解にまちがいのないことだけを、どうつたえていくか、その実感の確信はもてた。場所にのみ限定された災害である、社会に拡張される崩壊はしていない。
今回の最後、大船渡へ向う、そのわたしの観方は、そこで確信になった。
大船渡 Ofunato
再び山をこえ、大船渡へはいる、なにも崩壊していない光景が目に入る。
街を、下っていくと、港の低い一帯のみがやられている。
すぐ、下まできているが、家々は、1部をのぞき、ほとんど残っている。
高台は、まったく無事である。
陸前高田のすさまじい崩壊は、どう見ても、産業的な過信と無知からまちづくりをしてきた結果の崩壊であろう。死亡1506人、行方不明、あわせて約2176人である。
大船渡は、小さな漁港、すぐ斜面高台となっているため、街がすべて崩壊するとはなっていない。317人死亡、行方不明約150人、あわせて約476人である。
気仙沼は、956人死亡、約540人行方不明。
住宅崩壊戸数は、大船渡の方が多いが、実際に見て、そのスケールは、まったくちがう、一般測定しているだけである数字では、ここはわからない。
道路わきの、寿司弁当屋で、寿司を買って、はらごしらえをできた。街は動いている。
外から、いくつかの被災地現場を、現象光景のみをみてきただけであるが、完全に、はっきりと見えてきたことがある。
崩壊したのは、まったく海岸沿いでしかない、しかも個々の入り江になった場所である、南北の長距離の一般ではないし、内陸部でもない。地震被害ではない、異常なる1000年に一度の「場所津波被害」である。はっきり限定できる。
しかも、個々の津波被害状況は、ちがう。これを、測定可能な数などで、被災地救援などしているから、まちがう。
北上川沿い、気仙沼、陸前高田、大船渡、それぞれ場所の状況でちがっている。そこに、そく具体対策は方針として個々べつべつにだしうるし、だしていかねばならない。
石巻の都市は、崩壊していない、あちこちの入り江や、港が崩壊した、その死亡総体の3025人、行方不明約2770人という恐ろしい数だが、場所ごとで識別して対策していかねば、ただただ一般論になり、なにもなされていかないずるずるの日々になる。
地震で、内陸部の工場の機械や設備が壊れた、それは津波被害とは別事である。
津波被害者たちは、なにもかもなくした。それにたいして、やれ証明書だ、ハンコだとばかなことをしている役所。特別法で、場所ごとの差別化した対策をとるべきだし、とりうる規模にある。
キューバのカストロは、かつて革命直後、ヘリコプターで農村をまわり、その場で農民たちの意見要請を聞き、即、その場で国家法令を作り決めて行った、できることである。
永田町の机の上で、一般論をいじくっているから、東日本「社会総体」が崩壊したかのように、うろたえている。
わたし自身、TV放映やインターネットなどで、もっと総体が崩壊していると思い込んでいた、まったくちがう、個々で、即対応対策しうる規模だ。それが、いくつかある、無数にあるのではない。
また、原発避難は、これとまったく異なる局面と場所にある。
HIRAIZUMI: peaceful place now in TOhoku
翌日、平泉へいき、源義経最後の地、高館へのぼり、北上川を見下ろした。
美しい、何も崩壊などしていない。芭蕉が、「夏草やつわものどもが夢の跡」と歌った場所だ。
中尊寺では、修学旅行の生徒たちが、賑わっていた。
平和である、平穏である。
中南米のゲリラ地帯もそうであるのだが、いつも戦闘があるのではない、圧倒的に平穏な生産と暮らしの日々があるのだ。
その平穏な日々を、政府は、被災者たちに与えてあげることができないで、戦時状態のまま放置している。その間違いである。
内陸部は、崩れていない、厖大な避難の土地も場所もある、具体をみていないから、いまだに避難所も満足にできない、しかも窮屈なところに押し込めている。
わたしたちは、いま、さまざまなひとたちの協力をえながら、ハウストレーナーを設置していくとりくみをしながら、一般復興ではなく、場所環境復興の具体へと歩みができるように、動きをはじめている。
これは、移動ハウスである。住宅法にかかわることなく、どこにでもおける。USAでは、災害避難住宅として、政府が所有して使っている。
快適な場所を供する努力はすべきであろう。被災者に、貧困をおしつけるべきではない。
「しない」ということとして、またもやすでに仮設住宅援助金にはあてはまらないという、住民無視の規則主義というお役所仕事につきあたっているが、仮設住宅企業にヤクザからみで、ひとの災難につけこんだ商売がなされているだけだ。仮設住宅と云う、震災一般の規格規則があるだけなのだ。
わたしたちは、義援金集めを別建てにしてつのりながら、「場所復興ホスピタリティハウス拠点」として受け入れ先があれば設置していこうとしている。明日にでも、作れる体制になっている。
社会一般の規準から、さらに地震災害一般の規則でもって、場所避難者たちになにもできないでいる政府の仕方は、なにからなにまでまちがっている。
内閣不信任案、ひとつとうせない、だらしない分派できない党派性なき民主党(政党で党派性を固有に持てないなど党失格である、党派闘争あってこそ政党は健全になる)、菅首相のこざかしいマヌーバ政治嘘に、またからみとられているなさけない政治なき政治だ。菅首相は、いま自分が辞めたなら、戦犯扱いを受けるのを知っているゆえ、必死にそうならぬものをつくるまで辞めない、それを自分で区切りとしている、鳩山たちのいう区切りなど関係ない。小澤に媚び、鳩山に媚び、自ら首相になる手段をえらばず、なったとたん、小澤・鳩山などを切るソフト・スターリニズム化をあらわにし(エセ左翼の典型的な仕方)、閉鎖主義で権力温存できると組織運営を勘違いした、そんなことしかしてこなかったため、突如の震災の出来事になにもできない、もう仲間から見はなされている、東條をだれもかばわなかったように、いずれ始末される、それを怖れて、自分のためのこととしての社会する事の正当化を作りだそうとあがいている。だが、それは社会すればするほど社会それ自体によって処罰される、それが社会の本質だ。他方、小澤も、もう政治さえできない、田中角栄政治のうわっつら後継者は、自分の岩手さえ自分でどうすることもできないで、中途半端な政治をしている次元へなり下がっている。
政局いじりをしている場合ではないという批判も、まとはずれ、政局いじりさえできない、不能議員たちである。真の意志をもった議員は、いまじっと耐え、機をまってはいるが、腐敗した政治環境において場がそう簡単にはうみだせない、不能議員どもが自己保存にやっきになっているからだ。理念も経験もない、若手が勘違いした社会正義面で、社会する規則保守の横暴な愚行を同調的にすすめている。
マスコミも、被災地を、「社会の眼」でしかみていないで、個々人をそこから分離してあつかっているにすぎない。
場所に、個々人は生きくらしているのだ、そこを同時に読み取っていかねば、真の報道もなしえない。
この報告は、さらに手をくわえて、国会議員へ渡されるものになるが、場所設計と社会設計のちがいが、いつになったならわかるのか、困ったものだが、あきらめるわけにはいくまい。
この、言語化しえない、草木を一本も残らずさらった大惨事の跡に立っての感覚の、最後に。いずこでも、海との波打ち際にたつことはできなかった。津波は、陸を崩壊させただけではない、海を遮断した。たくさんの、救援隊のクルマがほこりだらけ、どろだらけになって走っていた。しかも、だれひとり、わたしの動きをさえぎることはなかった、場所を取り戻そうとするその懸命さが、遠くからもつたわってきた、ただ黙って頭をさげて通過させていただいた。心から、敬意を。
そして、静かに、海へ向って、合掌・・・・・・。
(*1,2,3と順番にみてください。1000枚の写真記録の一部です。)
| 山本哲士 | 20:30 | - | trackbacks(1) | pookmark |
被災地のただ中に立つ:津波の「場所」被災であって、地震災害一般ではない:石巻から、気仙沼、陸前高田、そして大船渡へ(2)

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[アーカイブスとして再公開しておきます:被災地に立つ、全3回、2011.6]
気仙沼へ Kesennuma
一関ICから、気仙沼へ向う。のんびりとした東北の田園光景から、近づくにつれ、ほこりまみれになった救援隊のクルマに多々であう。だんだんと昨日の緊張が増す。
気仙沼市の街中にはいった、なにも壊れていない。えっとおどろく、郵便局も市役所も、町は通常のように動いている、人もクルマも普通に走っている。昨日の雄勝と、まったく違うではないか。
なんともないではないか、と街中をいき、右へ曲がった瞬間に、驚く光景がとびこんできた。一階が完全崩壊している、そして異様な魚の腐ったにおいが、まんえんする。
町の港側が崩壊している。
ぐちゃぐちゃになった道を、めぐりながら、邪魔にならぬようにと、ときおりクルマをとめ、写真をとる。マスクなしでは、いられない匂いだ。一階部分が、だるま落としのように、流されてしまった建物、電線コード
がからまった街灯、倒れた木の向こう側は、さほど壊れていない港。
向こうの山の斜面の家々は、無事である。
港には、巨大な船が2隻、火事で燃えつきたように崩れておかれていた。港の海には近づけない。
港の、1画が、崩壊しているだけだ、斜面の家々は残り、道を一本入れば、そこは無事である。
また、1階がやられているだけで、2階は残っているも、それは住めない。家の中に、車が入り込んでしまっている。
津波と云うのは、こういうものなのかと、すこし感じられた。つまり、1部崩壊である。
街中にうちあげられた舟、それを移動する作業がなされていた。
ここは、港の低い部分が、完全崩壊している。あとは、無事に残っている。
背景の斜面高台にある家は、崩れていない。
津波とは、津波におそわれた区域の観が、完全崩壊するが、津波がとどかない区域は残存する。当たり前だが、それがはっきりと境界区分される。地震被害とはあきらかに異なる、ここが、報道などでは一般化されてしまっている。全域が崩壊してゐるように見せられてきた。
Between Kesennuma & Rikuzen-takada
陸前高田へぬけられるのだろうかと、走らせたが、行けた。まちはずれのここは、無事である。45号線を、北上していく。
だが、この道のさき、山へのぼっていくはずれには、津波が来ていた。道路は、もう整備されているため、通過できた。
気仙沼から陸前高田への途中
山をのぼり、降りていこうとする、その道路標識に、津波浸水想定区域被の看板が立っている。
「ここより」と「ここまで」、と。なのに、かくも多大な犠牲者がでた。災害に想定外などないのに、どういうことだろう。大きな問題をのこしている。
山を、下った瞬間に、崩壊した村が、横たわる。唐桑地域だ。
斜面の家は、残っているが、下は完全崩壊だ。
この防波堤を乗り越えて、津波はおそった、防波堤がむなしい。
とおりすぎて高台からみる。
左が入り江、ここを通過して、先の谷間へと津波は流れ込んでいる。昨日の雄勝より広域である。
瓦礫がとりのぞかれつつある。
さらに、進む。途中、子どもたちを乗せたバスが子どもたちを降ろしていた、その姿は明るい、高台の残った村だ。前方をいくバスに子どもたちがのっている。
しかし、その足元の村は崩れている、また山をおりると崩壊した光景が、とびこんでくる。長部漁港区域だ。広田湾の中へと入ってきた。
海側には、クルマの集積場となっている。
斜面高台にある先祖の墓が、崩壊した自分の村を見下ろしている。
寺への階段が、途中まで切れている。
はずれに、大漁旗と黄色いハンカチが小さくなびいていた。いつか、帰ってくるという希望のしるしなのだろう。
すごい匂いだ。汚染水をとりのぞくバキュームカーが、ぽつんと作業していた。
その近くに、まだ放置されたままの破壊したクルマ。
入り江ごとに、こうした光景がひろがる。
だが、それは、まだ序の口であった。
そして、陸前高田の街中にはいる。
すさまじい光景がとびこんでくる。
Rikuzen-takada
いや、もう言葉を失う、一面、瓦礫だ、厖大な域が、まっ平らなため、まったく何も無い。全てが、完全崩壊している。
(*1,2,3と3部立てです。)
| 山本哲士 | 17:01 | - | trackbacks(0) | pookmark |
被災地のただ中に立つ:津波の「場所」被災であって、地震災害一般ではない:石巻から、気仙沼、陸前高田、そして大船渡へ(1)

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[アーカイブスとして再公開しておきます:被災地に立つ、全3回、2011.6]
この3日間、東北の被災地へ行ってきた。
東北自動車道を北上する。
福島あたりから、高速道路がときおり凸凹に歪んでいるものの復旧はすすんでいる。ビニールシートを屋根にかけた家が、点々とするが、想像以上の地震被害があるように外見からはみえない。
対向車線に、災害救援隊のクルマの列が赤ランプをまわして、何台もとおりすぎる。自衛隊、消防隊、機動隊、民間など、救援隊が動いている。
自分のこの目でみないかぎりなにもわからないと、被災地へ向った。以前からいくつもりでいたが、もう邪魔にはなるまいと。ただ、観る、それ以外なにもしない、内省の目で観る、現場に立ち感じる、それだけだ。目的地は、主に気仙沼から陸前高田、大船渡にしぼった。何の準備もない、行政を紹介されると言われたが、断った、自分でいきあたりばったりに感じる、だれにもあわない、自分が自分へどうなるのか、いつものわたしの仕方だ。関係者に会うと観線が別の方へといってしまう、最初はそうしたくない。ひとりで、ただそこに立ってみる。
石巻を通過して Ishinomaki
仙台南ICで、仙台東部道路へはいり、石巻のほうへむかってみた。
ブルーシートの数が、少しおおくなるだけで、崩壊しているとはいいがたい。だが、海へちかづくにつれ、別の光景が少しづつはいってくる。高速を左へ曲がり、海沿いへはいると、なぎたおされた木くずが散乱する。
【道の東側】
浸水が激しいとおもわれる仙台空港の方へはいかず、海岸に沿った北上のルートをとる。
東側は、完全に進水したあとのがれきが点々と残っている光景が延々と続く、これをもって、被災地がずっと続いていると一般化し拡張している、だがその西側は、さほどではない。家々が残って、人は住んでいる。この視座をもたないということから、誤りが来ると云うことが、後に分かってくる。
【道の西側】
右と左のまったくちがう光景の、異様な雰囲気に、緊張が走るが、考えずにただただ走る。
被災は南北にずっと広がっているが、東西には、高速道路で区切られている、ここは、重要なポイントである。
石巻の街をとおりすぎながら、都市的中心街自体は崩壊などしていないことに逆におどろきながら、北の北上川沿いを海の方へといってみることにした。川の南側をいく。
北上川へ Kitagami River
なんとも大きな美しい川だ、そこに、崩れた木々がうかび、ところどころに、小さな船がひっくりかえってはいる。
しばらくいくと、眼前に、ぽつんと取り残された、完全崩壊の家々が、出現する。堤防をこえて、はいりこんできたのがわかる。進水した水は、そのままよどんでいる。電信柱は、傾いたまま残っている。
ぺしゃんこにつぶれた家もころがる。
堤防の復旧が急ピッチに進められているのが、その動きで分かる。
鉄板がしきつめられた緊急道路を、ほこりをあげて、救援隊がひきあげてくる。よそ者のクルマは、わたしの1台だけだ、邪魔にならぬようにと気配りながら走る。
橋は通行止めのため、向こう岸へいけず、女川の方へクルマを走らせてみる事にした。釜谷トンネルをくぐって、向こう側へでたとたん、とんでもない光景がとびこんでくる。
雄勝 Ogatsu
これが、町が壊滅するという事か、はじめてみる光景、それはただ瓦礫だけの平、ビルは外形だけの、まったくなにもない姿だ。崩れたクルマが横たわる。
街の名は、あとでしらべて、雄勝という、小さな入り江になった両はしがせまい、漁港である。ここへ、10mを越す波が襲いかかったと想像する、身体がふるえる。海べりの方へは、がれきの塊で近づけない、女川の方へは抜けられないため、もと来た道を帰る。山際へはりついている学校も、外形のみのこし、崩壊している。
このビルの上まできたのだろう、外形だけのこっていた。
もう、夕方、不気味な静けさのなか、鳥の声だけが響く。誰もいない。救援隊のくるまが、1台通り過ぎていった。
北上川沿いで残っている町
北上川沿いへもどる、堤防下の、なんともない街がそのまま残っている。この左上は堤防なのに。この町のすぐ先が崩壊している。
東北道の古川の方へむけていったが、なんの崩壊もない、普通の町々だ。
つまり、崩壊したのは、海べりだけ、津波が来ていない処は壊れていない。ほんの一角だ。
あと、広大な土地はそのままのこっている、なのに仮設住宅が詰め込まれたように一画へ押し込まれてたっていた。
おかしい、ともう感じ始める。
1部の完全崩壊区域とまったく崩壊していない広大な地域、その差が歴然とある。しかも、崩壊した雄勝など、まったくなにもない全滅、そこから数キロ内陸にある別の町々は、なんともない、すくなくとも外見は。人が住んでいる。畑や空き地は膨大にある、なぜ、避難者たちの場が無いのか、わからない。
まだ、結論をだすのははやい、明日、気仙沼から陸前高田へ向ってから、感じなおそう。
宿泊は、鳴子温泉まで足をのばした。地震被害は、ほとんどない、ゆれもさほどではなかったという。
もう、ここは、天国の場所だ。しかし、被災者が20名ほどこの旅館に避難しているという、出合わない、遠慮してしずかにしているのだろう、いかに温泉天国の場所であれ、彼らにとって安楽の地ではない。
ともかく、落差の強烈さだ。完全崩壊は、津波であって、地震ではない、地震災害対策と同じ尺度で被災者に対応している、政府のまちがいは歴然としている。
(*1,2,3と続きます。)
| 山本哲士 | 13:03 | - | trackbacks(0) | pookmark |

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TETSUJI YAMAMOTO

山本哲士【やまもと・てつじ】
文化科学高等研究院ジェネラル・ディレクター
政治社会学。ホスピタリティ環境学、企業環境学。
ホスピタリティビジネス設計、場所環境設計。
スイス国際学術財団F・EHESC ジェネラル・ディレクター。


Pedagogy Ph.D 1981-2008:Shinshu University, Professor of political sociology / environmental cultural sciences/hospitality environment
1980 Tokyo Metropolitan University、post-graduate of human sciences / doctoral course
1975 Studies abroad to Mexico CIDOC(Centro Intercultural de Documentacion)
1986 Director of "IICHIKO"quarterly magazine
1990 General Director of EHESC
2000 General Director of F・EHESC(Geneve)

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