いやはやなんというドラマ。
感動というものをこえてしまうものがあるのだ、
という新しい体験を観る者はさせられた。
完璧な演技をしきったキムヨナは、
演技が終わったとやりきった安堵からか涙した。
緊張がほぐれ、気強い彼女がはじめて見せた涙ではないのだろうか。
やりえた歓喜ではない、苦しさから解き放たれた終わった涙にみえた。
浅田真央は、自分の演技ができなかったという悔し涙で息苦しそうに
しゃくりあげながらこれも人前ではみせなかった大粒の声もでない涙で、
長く短い4分間を語っていた。
だがミスしても205点、銀メダル、しかもそんなものに喜びなどみせず、
負けたというより、演技しきれなかったということへの悔し涙だ。
なんというすごい子だろう。
そして、ロシェットは、数日前母を失った悲しみの中からの銅に
表彰台で涙していた。
キムヨナの喜びにもどこか前にむいたものはない、
夢をかなえてしまった果たし得たという空無のような歓びの涙。
この3つの異質な涙は、超絶した次元での異なる涙、
歓喜あふれた涙はどこにもない、
なんという驚くべき次元を彼女たちはつくりだしたものか。
極限はこういうようになるのだろう、
といういままでみたことのない地平である。
超絶した二人を、しかしどうみても審査員は的確につかみえていない。
キムヨナの完璧さに異様な最高点をつけ、
浅田のトリプルアクセス成功とステップに点を付けきれないでいる結果、
20点ものへだたりがそれを表徴している。
プルシェンコが怒ったように、
審査する奴らは選手の演技をまた苦闘をわかっちゃいない、
どれほどジャンプがたいへんなものか自らがなしえないから
まったく理解しえないのだ。
キムヨナのぶっとび点数に比してミスしたとはいえ、
史上初3つのトリプルアクセスを決め、
ジャンプとジャンプのつなぎを演じきった浅田への点がひくすぎる。
会場からブーイングがおきた。
審査員たちの水準より、はるか先へ二人はいってしまったのだ。
真央はキムヨナに負けたから悔しいのではない、
自分がせいいっぱいやりながらミスしたことが純粋に悔しい。
だが、この勝利と敗北には、決定的な違いがある。
キムヨナはもう「宇宙人」と称されたような最高頂点へ到達してしまった。
それは、オーサーコーチがしくんだ、金メダルをとるための
作戦+政治の組み立てだ。
こうすれば勝てるという審査員の評点の仕方を完全理解し、
キムヨナがそれをなしうるように徹底して訓練する。
ルールに従わせる完成の仕方、キムヨナゆえなしえた。
だがこれは、なし終えて終わりだ。
北米コーチたちの市場は開かれたが、
キムヨナには、もう選手としての先は無い、
あるのはプロとして生きていくか指導者として自己形成するかであって、
演技選手としては完全に自己完成させてしまった、
彼女はあまりに美しく終わったのだ。
(妖艶な演技と称された、その表出の中には
可憐な19歳の少女の苦しみがある、それが表彰台の涙であった
(それを見せてしまったゆえ舌をだし、
まだ演じきる自分へもどっていた))。
荒川が金メダルをとるべくリスクを回避して勝利の完璧さを実現させ、
選手をおわったように。
だが、浅田は、金メダルをとるべく危険をさけるという仕方をとらなかった。
たとえミスしようと3つのトリプルアクセルにとりくみ、
それをきめたことによって、フィギュア界にあらたな世界をひらいた。
ルールがとらえきれない閾に挑戦し、それを開いた。
そして自らは、それを入れて、
ジャンプか演技表現かという
現在の不毛な対立の次元をこえる世界を完成させていく途上にはいっている。
そしてソチではそれを達成する結果としての金メダルをとるであろう。
かつて、羽生名人が言っていたこと、将棋を闘っていて、
こう打てば確実に勝つという経験上の局面にくることがある、
そのときそれを打って確実に勝つ道を選んだなら、進歩は無い、
それで終わっていく、自分はあえてその手とは違う未知の一手をうって、
新たな勝負の閾をひらくことを選択し続けていくと。
真央は、そういう道を選んだ。すごい人だ。
日本中を感動させ、また感動を越えた次元があることを感じさせる、
あまりに超絶している真央に、だれしもが感銘するのは、なぜなのか?
他者ではない、自分の自分に対する対決を果敢にしつづけるということが、
だれしにもそれなりにある、そこへ響く純粋なものがあるからであろう。
19歳の少女に、若者や同性だけでない、
おっさんやおじいさんまでもが感銘してしまう。
彼女は他者を見ていない、自分を自分として前へ前へとずらしていく、
進歩への挑戦しかとりくんでいないこと自体が、他者へ響くものをうみだす。
安藤美姫の限界は、他者への感謝とか他者への喜びとかという疎外させた
ある種のそらぞらしさにとどまっているところにある
(理想自我を他者からの視線として疎外し、
自己満足からの脱却と設定する自我葛藤は、
他者への感謝という形でしか安定をとりえない、
かわいそうな疎外であるのだが)、
それでしか、苦しむ自己を開放しえなかったからだが彼女なりにやりえた
(それはまたそれとして大衆受けする仕方であるが)。
しかしそれは自己を自己としてやりぬいた
浅田やキムヨナの超絶的な次元とあまりにも違いすぎる。
ロシェットにおける
母の死という死の超絶性からの悲しみにもたどりつきえない。
すでに次のステップへとふみだしている新生、浅田真央、
たいへんな存在が現れた。
毎日真央の足をマッサージしつづけ育ててくれた母に
感謝しながら涙する彼女、
もう、無邪気にスケートをしている女の子はいない。
ひきしまってきたその顔は、次の金をめざすというより、
金を不可避な結果としてもたらす次元での
フィギュアの深化と飛躍へと向いている。
日本人1億人が、無邪気な、明るい笑顔のスケート一筋の少女が
挑戦したひとつの極限的な闘いを見、なにかを感じるのも、
そこに自分をみるような、そういう存在表象を彼女は純粋性という
これまたありえない存在行為をなしえているからだ。
世界も真央に、キムヨナ以上のものを感じ見て、改めて驚愕している。
真央を乗り越えるべく、キムヨナは苦闘し、完成、実現した
(理想自我を達成するというほとんどありえないことを実行した)。
だが、真央は、キムヨナを乗り越えようとはしていない
(たとえメディアからそういわされざるをえないことから
言っていたにしても、内的には彼女には非自己としての自分を追求し
つづけるという、理想自我としてでない自己技術があるのみのすごさだ)、
自分に課せられた限界を自らで越えていこうとしている、
つねに自分が自分から挑戦的にずれつづけて飛躍していく、
衝激的な感動だ。
キムヨナにはキリスト教的な欲望・羨望の三角形があったが、
真央にはそれがない。
それが、オリンピックという場では負ける結果をもたらしはしたが、
真央は終わっていない、西欧なるものを越えて深化し続ける。
偉大なる二人の少女に、世界は釘づけになった。
フィギュア日本選手は男女全員が入賞した、
それにくらべて審査員にひとりも日本人がいないというなさけなさ、
スポーツ指導者・管理者たちの遅れが露呈した今回のオリンピックである。
スポーツほど、政治的でかつ経済的な効果を波及させるものは無い
ということを日本のスポーツ指導者・管理者たちは
まだまったくわかっていない。
苦闘し苦しむのは選手たちだ。