「感動」とはなにか?
2014.12.01 Monday | category:b:ホスピタリティ理論
JUGEMテーマ:学問・学校
感動とはいったいなんなのか。
当然ながらひとによって、それはちがうが、ある閾がつきやぶられたときに、感動は起きる。
他方、規範規則に従属している枠内の状態では、絶対的に感動は起きない。
このふたつから、みていくと、感動は「挑戦」と重ね合っているのがうきあがる。
先日TVで、金栗四三のはなしを知った。マラソン選手だ、マラソンの高地トレーニングを提唱し、いまの箱根駅伝を創始したひとりであるらしい。
彼は、オリンピックのストックホルム大会で金メダルを期待されていたが、40度の気候のなかで日射病にかかり倒れ、農家に救われ翌日目をさました。
それから、54年後、彼のところに、棄権が表明されていない、競技をなしとげないかとストックホルムから要請され、完走する。その結果のマラソン記録は、第5回 ストックホルム大会(1912年(明治45年)) - 一時行方不明
から、54年8か月6日5時間32分20秒3と正規に記録された。永遠に破られない最低記録であろうが、こういうはからいを、ひとつの感動といえる。ゴールし切った、金栗の笑顔は満ちていた。ルールを破っていない、ルール下にある処置だが、既存枠をはずさないとなされえないことだ。
柔道の井上康生が、不振からたちなおりオリンピックで金メダルをとった、亡き母の遺影をもって表彰セレモニーにでようとしたなら、表彰台へは何ももっていってはいけない規則だという。そのとき、関係スタッフが、服の下に隠してもっていけば、わたしたちは知らなかったということにする、とアドバイス。井上康生はジャンバーの下にそれを入れ、表彰台にたって、とりだし高々と遺影をかかげ、感動をよんだ。
こういうことは、付帯するエピソードではない、スポーツのある本質からしか表出しえない出来事である。
去年、楽天の田中投手が、優勝決定のマウンドにあがって、優勝を決めた。星野の偉大な采配のひとつであるが、日本シリーズを観るすべてのひとに、楽天の優勝は感動をあたえた。
かれらは、究極の挑戦をなしてきた、そのうえに表出していることだ。
(つづく)