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浅田真央のスケートの美:フィギュアスケートの非分離哲学

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フィギュアスケートは、何を表出しているのか、それが子どもたちが練習している光景、そして、浅田達ベテランと若手たちの台頭の質の違い、鈴木明子でさえ、村上とはちがうということの違いとして、みえてきたものがある。
フィギュアとは、述語的表出の場を身体と氷上とが非分離の場所に作りだし、その器に主語的・主体的行為が飛び上ってこめられ一致したとき演技の美が創造され、それが入り込めないと転倒したり回転不足となる。
スケート靴と氷とが、非分離になって滑走している、結合なら動かないし、分離したときはジャンプでとびあがったときだ。
この、非分離から分離への移行に於いて、真央は、修正をくわえたとき、身体と氷とのズレをうみだし、そこに身体が非分離になるまでの苦闘を要した。
それがわかったのは、一生懸命に幼児たちが練習している、それを高橋がアドバイスしていたTVをみていてだ。
幼児や子どもたちは主語的動きをしているだけで、氷との述語的非分離がまだ作れていない。
身体は氷とは別の次元にあって、それが一致と言うより、非分離につくりだせていないのだ。高橋が「ひたすらの練習だ」というのは、スケート靴と氷とが非分離になる、そういう身体とリンクとのなじみの閾にまでいかないとならないことを言っている。
ちょこっ、ちょこっと飛び上る子どもの滑走をみていて、分かった。
それは全日本選手権のショートで、若手組が演技していたあと、鈴木達がでてきたときの、経験閾のちがいとしてかんじられていたものだ。村上も羽生も、じつに上手だが、鈴木が失敗しても、どこかちがう、重厚なのだ。若手は、どこか軽い、それは、まだ非分離の述語性をまだ表出しえていないからだ。
ジャンプにいたるまで、述語性の場所をベテランはリンク上につくりだし、そこから分離へと跳躍し、その作りだした述語場へうまく着地したとき、つまり非分離へしっくりともどったときに、完璧となる。
それが容易ではないため、回転不足になったり、転んだり、ジャンプできなかったりする。
つまり、わたしのいう、「非分離」とか「述語性」というのは、そこに在るのではなく、作りだされる「動き」である、ということだ。
スケートリンクという「有の場所」がある。それをスケーターたちは、「無の場所」へと創造する、しかも「述語表出の非分離の場所」へと創造する、それをしているのだとわかった。
真央は、ここを自己技術として徹底させる。高橋は躍るリズムとして徹底させる。
安藤美姫は、それ以前の自己と他者・人間との折り合いで葛藤して、自己身体へ結合させている。
それぞれ、仕方というか重点の置き方がちがう。
真央には、分離閾というものがない、そこが他者とは隔絶的に超越している。
技術的には、タイミングが合わなかった、間が合わなかったと言われるが、述語性の場を一時つくれなくなったのだ。
フィギュアは、すごいことをしているのだとわかった。それを、身体感覚で領有しきっている真央は、ほんとにたいへんなことだということを、あらためて再認した。
すうっとすべっていって、そこに述語性の場を非分離場所としてつくりだし、そのつくった場所(それは動き続けている)に、はいりこむ、それが3回転半、4回転となる。1回転の場所は簡単につくれる、ということか。主体的に回転しているだけではない、ということである。
主体的・主語的なだけでは、美は創造されない、場所と身体とが非分離となって美がうまれていく。
(日本的な「舞い」とは、本質的にそうだ。タンゴの舞いとはちがう。)
それは、日本文化の技として、本質的だ、日本人選手が身体的に文化領有しているものだ、それをいま全日本は総体的に、開花させているということだ。
 西欧的思考が誤ったのは、意志が主体化されるということでしか意志をつかみえなかったことにある。「エス」を設定し「エスが考える」としても、思考する言語の主述構文がそこを脱出しえない。欲望の主体化とともに、それは実定化される。したがって、主体は炸裂するほかなくなる。分離は、実体化されていく身体や精神を炸裂させる。述語意志を失っているからだ。
 心身が非分離にあるとき、身体と環界も非分離にある。それが、述語的場所である。述語制は、場所なしには存在しない。述語意志とは、非分離の場所における「表出の意志」である。
「時計を合わす」という言い方を日本語はする。つまり時刻と時計の針を合わす、非分離にするということだ。。
「時計を合わせる」は仏語では、mettre sa montre à i' heure(時計に時間を置く)ということであって、時計という分離された個物に、別の客観的に時をきざんでいる「時間」という実体を「置く」のである。これはまた、場所から切り離されている、世界不動の時間である。分離された物と分離された物との間に関係が構成されたとき、その関係には行為がない。ただ、項目の関係があるだけだ。分離では、時が無い、動きが無い、行為が無い、場所が無い、つまりさまざまな煩雑さがない、ただ物と物があるということになっている。
 非分離大系は、これら分離の逆になっている。時の流れがあり、動きがあり、行為があり、場所がある。従って、いかなる状態にも移行しうるという状態にあるということだ。不安定ではない、動きへの性向にあるということだ。この非分離において不動となっているが、いかなる状況にも対応しうる、移動しうる不動、あるいは動きを作りだす不動である。非分離は産み出されていくことである。
 「時計を合わせる」ということには時計という個物はない、時間が合わされていく、時間をうみだしていくということが、そこにある。
ピアノに合わせて歌う(伴奏にのせて歌う)
 時計を合わせる(正しい時刻に置く)
 人に調子を合わせる(快いようにふるまう)
 腹を合わせる(共謀する)
 薬を合わせる(調剤する)
 写しを原本と合わせる(比較照合する)
と言ったように、「両方がくいちがわずにぴったり合わさる事」「ふたつのものがぴったり合うことをもっぱら意味する」としてしまうとき、考え方は分離に入っている。
実際はぴったりとは合っていない、非分離の対的関係に置かれるということだ。
「色合い」、そして、「間合い」「気合い」「果たし合い」、試合もそうだ。
「技が決まる」という非分離
 相撲で四つに組んでいる。非分離状態である。力が対等状態であるから動きが止まっているようにみえるが、力と力が真正面から戦っている状態だ。この均衡に力の差別化をうみだすのが技であるが、技をかけるその瞬間は分離していたならかけられない。四つの非分離状態から技の非分離段階に動かした瞬間、技が効いてくる。突き放すといういうより、グッと引き寄せて非分離状態をつくりだして技をかけ、相手を倒す。
 柔道の試合で、海外の選手は組むのを嫌いつねに分離を保とうとしているが、日本の選手は組んで非分離体勢にもっていこうとしている。まったく原理が異なる闘い方をしている。あえていうなら、分離と非分離が闘っている、この非分離がうまくつくれると日本人選手は勝つのだが、分離状態のままの体力負けで勝てなくなっている。技が掛けられないまま負けていく。海外選手でも技を掛けて勝つ者は、観ていて爽快であるが、あまりない。
 剣道やフェンシングでは、分離している状態で対面し、切る瞬間、突く瞬間に非分離になる。非分離に引き込むことによって、技が掛けられているのは、道具が中間にはいっても同じである。
野球でいえば、投手が投げる球が捕手と非分離になったとき、打者を空振りにできる。まっすぐでも打てない。また、打者は、投げられた球を非分離でとらえたときヒットにでき、投手と捕手の関係を分離させているのだ。非分離を奪い取っているといってよい。
 スポーツ、とくにプロスポーツであるが、非分離において技がなされていることが決定的に勝負を決めているということだ。ここに、欧米と日本との違いはない。身体同士が分離しているとき、間にボールやバットなどの道具がはいりこみ、その道具がなんらかの非分離を相手か対象にたいして産みだしているとき、技が働いているのだ。
陸上は、足が土に非分離であるよりも蹴って飛び上っている方が時間が長い。しかし、スケートは、滑っている非分離状態の方が長い、これは日本人の身体にはあっているということだ。
 技とは動きである。その動きにおいて非分離が出現している、非分離が動いているゆえ、技が働いていく、相互的行為であって因果関係の結果ではない。
 行為とは動きそのものである。技とは、行為がある異質な状態をうみだすことにある。行為が働いて作用において、ある状態から異なる状態が産み出されることである。四十八手といわれるように、四十八通りもの技がある。
 物づくりにおいても同様である。職人は対象との間に非分離関係の技術、つまり技を働かせている。「文化技術」とわたしが括っている技は、物と職人との非分離技が、対象間の非分離を創出しているといえる。すると、それによってつくりだされた物=道具自体が非分離物となっていく。開花堂の茶筒は、手で蓋を押し込めるのではない、すうっと蓋が自然に落ちてしまっていく、非分離ゆえそうなる。この本質において、西欧も日本も違いがないのに、西欧はモノを分離させるという目的性が介入していくことによって、技自体が分離技術へと精錬されていく。非分離の方が本質的であるのだが、それが西欧においては認知されなくなっている。構造化された状態からの規制を受けるのだ。料理も技である。
近刊『哲学する日本』(EHESC出版局)では、こんなことまでも考えている。
やっと脱稿した、2月中頃に刊行される。
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TETSUJI YAMAMOTO

山本哲士【やまもと・てつじ】
文化科学高等研究院ジェネラル・ディレクター
政治社会学。ホスピタリティ環境学、企業環境学。
ホスピタリティビジネス設計、場所環境設計。
スイス国際学術財団F・EHESC ジェネラル・ディレクター。


Pedagogy Ph.D 1981-2008:Shinshu University, Professor of political sociology / environmental cultural sciences/hospitality environment
1980 Tokyo Metropolitan University、post-graduate of human sciences / doctoral course
1975 Studies abroad to Mexico CIDOC(Centro Intercultural de Documentacion)
1986 Director of "IICHIKO"quarterly magazine
1990 General Director of EHESC
2000 General Director of F・EHESC(Geneve)

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