国家資本と場所資本:国家論3部作を完成させて
2017.03.01 Wednesday | category:n:場所論
JUGEMテーマ:学問・学校
国家資本が「主語制様式」を集中化・統一化・普遍化している。 それは、言語市場の統一をはかり(学校文法で主語があると教える)、国家が生産者であるかのように統治制を配備した。 国家資本化されない、排除されたのが場所・資本の「述語制様式」である。 伝統工芸文化技術、場所キモノの染織技術など、非分離の述語技術が衰退していく根拠である。 しかし、日本の本来の地盤は「述語制」にある、日本語に主語は無い。 他方、日本の国家資本の高度さに、政党や政治家、そして官僚も企業も、政治資本、経済資本が至り得ていない。 国家資本の高度さと場所資本の蓄積とが、相反共存するシステムの構築がこれから要される。 国家に実体がない、国家は幻想であり、規整化理念であり、統治制が国家配備されるだけである。 国家権力なるものは存在しない、国家間の均衡である軍備、国内統治の税制があるだけだ。 マルクス主義的国家観とヴェーバー的支配論が、官僚や企業や大卒人間に浸透してしまっている。 それを根源から転移し、本来の国家のあり方を鮮明にし、場所資本の政治経済の可能条件を開いた、国家論3部作である。
本は、ジュンク堂、丸善におかれています。 フーコー国家論(4900円)、ブルデュー国家資本論(4500円、3月15日発売)の直接購入はehescbook.comへ。ともに、600頁を越える大著です。
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ラグビー・ワールドカップの感動と興奮
2015.10.13 Tuesday | category:i:野球、スポーツ
JUGEMテーマ:スポーツ
サモア、スコットランド戦に、興奮した、すごい試合だった、サモア優勢の前半、これでいけば、日本の決勝トーナメント進出が可能になるかもしれないと、他国の試合ながら、期待と興奮でみつづけたあまりにすごい試合であった。スコットランドの試合運び上手の大人の戦略が後半であった、ただ肉体でぶつかるサモアは、ペナルティを犯しつづけ、殴り合いまでおきたが、じりじりとスコットランドに攻められ追い抜かれはなされていく、そしてトライ、これでもうだめかとおもうも、最後、サモアも意地をみせ5トライ目、3点差までおしかえしたが、もはや残り2分、終わってしまった。後に、わかったことだが、サモアに日本が勝った時、サモアの選手がスコットランドに絶対勝ってやるから、日本がベスト8へ行け、と言ったらしい。日本ラグビーへの共感と敬意が他国にもうまれていたのだ。試合後、泣きくずれていたサモア選手がいた。サモアとしても、日本に負けたがスコットランドには勝ったという誇りをもちたかったのだろう。
日本のベスト8進出はとだえた。
こうした、他の試合に興奮しえるのも、日本チームのしぶい戦いが、世界をゆるがせたからだ。
日本のベスト8進出はとだえた。
こうした、他の試合に興奮しえるのも、日本チームのしぶい戦いが、世界をゆるがせたからだ。
いうまでもない、あの、日本の南アとの初戦の残り35秒の、あまりに劇的な勝利にはじまったラグビー・ワールドカップ、前評判をしのぐすごい試合をみせてくれた、たちあがって、TVにしがみついた35秒であったが、世界中をも感動させた。これぞ、ラグビー精神のもっとも劇的な、試合であった。ワールドカップに出場してもぼろぼろの負けにあけくれていた日本が、生まれかわった、世界に通用する水準をしるした日になった。
ジュネーブでTVを観ていても、ジャポネの語が乱発されている。
つづくスコットランド戦、前半をしのいだが、後半ぼろぼろとなっても、それは疲労でしかないと感じさせる、案の定、3戦でサモアをよせつけなかったが、リーチ曰く、体力は限界ぎりぎりであったと、4トライのボーナスをねらわず、ブーイングのなか勝ちに徹した。
おそらく、4戦目、勝つであろうとおもうが、勝ち点1点差で、とどかない結果になろう、4トライのそこまではこの際いってほしい。
USA戦とスコットランド戦とが入れ替わっていたなら、ベスト8進出は可能であったろうと思うのも、その後のスコットランドの戦いをみていて感じた。そして、目が覚めた南アのすさまじいパワーのその後の勝利、よくも勝てたものだとおもうが、低い姿勢のスクラムで南アをおしまくっていた日本である。
ジュネーブでTVを観ていても、ジャポネの語が乱発されている。
つづくスコットランド戦、前半をしのいだが、後半ぼろぼろとなっても、それは疲労でしかないと感じさせる、案の定、3戦でサモアをよせつけなかったが、リーチ曰く、体力は限界ぎりぎりであったと、4トライのボーナスをねらわず、ブーイングのなか勝ちに徹した。
おそらく、4戦目、勝つであろうとおもうが、勝ち点1点差で、とどかない結果になろう、4トライのそこまではこの際いってほしい。
USA戦とスコットランド戦とが入れ替わっていたなら、ベスト8進出は可能であったろうと思うのも、その後のスコットランドの戦いをみていて感じた。そして、目が覚めた南アのすさまじいパワーのその後の勝利、よくも勝てたものだとおもうが、低い姿勢のスクラムで南アをおしまくっていた日本である。
それにしても、肉弾戦の凄いラグビー、血がながれてもぬぐおうとしない、トンプソンなどはいつも血をながしている。脳しんとうはおこすは、サッカーの比ではないことが、あらためて示された戦いの数々であった。小柄な田中は、死ぬかもしれないからと家族にいいのこしたという、はじきとばされてもタックルに躊躇がない。2人がかりでの戦略的な徹底したタックルが、南アやサモアに通用した。
ニュージーランドのハカは、文化だ、それに対抗するウェールズの半円の構えもおもしろい。
ここまできたなら、日本も何か奇抜な演出をしてほしいと思う。
2019年、ワールドカップ、日本開催は、翌年のオリンピック以上にもりあがると期待できる興奮が確実に待っている。
それにしても、監督によって、これほどのチームに成長しえる、プロはやはり監督+コーチ次第だということを、これほどはっきりとみせたものはない。そして、やはりファンは、強いチームを望む、日本中がわいた。にわかファンであれ、いいものはいい。
五郎丸スタイルは、イチロースタイルとならんで、世界で注目されていこう。
さがりながら、攻める、ラグビーの面白さとダイナミックさから、ものごとへの取り組み方の姿勢として学ぶものがある。タックル等、おそろしくとても自分がなせるものではないが、外在的に観ていても実におもしろいワールドカップレベルだ。
バレーボールも、男子がやっとがんばりはじめている。
女子バレー、女子サッカー、女子ソフトボールと、女子のひたすらの一途さが、男子にはっぱをかけてきている。
そんなとき、男のなかの男のラグビーが、新生した。
かつて、オールブラックスとの、あまりに悲惨な試合をみてから離れてしまったが、ラグビーをみたのはそれ以来のことだ。
混成チームであるのもいい。おむすびを何百個もとどけているという、支えのエピソードもいい。
興奮と感動をまきこしてくれた。
じっくりと4戦目を味わおう。
4戦目は、USAからかなり研究されながらも、劣ることのない、しっかりしたジャパン・ウェイが、もう世界レベルであることをみせてくれた。だが、トライ数は、少ない、ここが、ベスト8に辿り着きえないもう一歩のところであろうが、日本チームはクリアしえていくであろう。
海外メディアからのインタビューに、声を詰まらせ泣いていた五郎丸、「仲間が・・・」といったままもう声にならなかったが、それがまた世界に感動をもたらした。キック、世界一になった、すごいことだ。
日本はもういないが、決勝トーナメントを愉しもう。わたしは、ニュージーランド応援だ。JUGEM
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原発批判の替え歌:日本も捨てたものではない知性=感性がある
2014.12.08 Monday | category:l:日常
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YOU TUBEをいじくっていたなら、原発批判のあざやかな替え歌があるのを知った。いまごろ、といわれそうだが、まったく知らなかった。
まずは、「フランシーヌの場合」が、「プルトニュームの場合」へ、
かなしく、無気味でさえある替え歌だが、ユーモアがひかる。
https://www.youtube.com/watch?v=qo_pxVzZXCE
そこに、景気のいい変え歌、「自動車ショー歌」に代わる「原発ショー歌」だ、
https://www.youtube.com/watch?v=nOH6BBlbqv0
はるかに腹をかかえてわらってしまうのが、キャンディーズ「春一番」の「もうすぐ春ですね」の替え歌「もうすぐアウトですね」
https://www.youtube.com/watch?v=DohLYyI1WF0
これには、「もうすぐはげですね」などいろいろあるようだが、これが傑作であろう。
さらに加えて都はるみの「大阪しぐれ」の替え歌「原発しぐれ」
https://www.youtube.com/watch?v=jviq_6Oiczo
だんだんせつなくなってくる。
さらに、いやみの閾にはいったアイロニーがつづく、かつての反戦歌「自衛隊にはいろう」の替え歌「東電に入ろう」
https://www.youtube.com/watch?v=_vl73V9eD6A
徹底したイロニーは、やはり忌野清志郎だ、福岡の電気ホールでやったらしい「原発音頭」
https://www.youtube.com/watch?v=K2baSCycSWk
ここまで来ると、ものごとの一義性にしか自覚の無い真面目な人は、清志郎は「原発反対だったのでは?」となる。イロニーの意味がわからない存在があるようだ。「原発賛成!」「九電万歳!」「原発推進!」と、すごいシンプルなイロニーであるが、主語制概念空間に覆われた者は、「賛成」と言っているのだから原発支持なのだろう、と解するほかなくなるようだ。終わりに「おまえらよくやるよな、ほんとに」という清志郎の自戒をこめたイロニーには脱帽。
サマータイム・ブルースやラヴミー・テンダーなど反原子力の歌は、発売停止にまでなったが。
原子力反対が、電気に乗って流れる、皮肉だとか、相反現象にたいする嫌悪が、「真面目な清潔主義」のファシズム感覚になっているのだが、これこそロックだ、というのもなじめない。
糞真面目な顔をして、目くじらたてて、正義ぶるものも、ファシズム的全体主義である。
イロニーの笑いと悲劇、現実のやるせないせつなさへ、日本も知性をもっていたのを知って、すてたものではないと、少し見直した。
だが、歌では、現象本質のをみごとに表象してはいるが、幻想技術はとけない。ずらしはずらしでしかない、2、3度聴いてあきられていく。しかし、こういう感性は、世界の民衆がもっている力だ。「笑いとばす」大事さである。
まずは、「フランシーヌの場合」が、「プルトニュームの場合」へ、
かなしく、無気味でさえある替え歌だが、ユーモアがひかる。
https://www.youtube.com/watch?v=qo_pxVzZXCE
そこに、景気のいい変え歌、「自動車ショー歌」に代わる「原発ショー歌」だ、
https://www.youtube.com/watch?v=nOH6BBlbqv0
はるかに腹をかかえてわらってしまうのが、キャンディーズ「春一番」の「もうすぐ春ですね」の替え歌「もうすぐアウトですね」
https://www.youtube.com/watch?v=DohLYyI1WF0
これには、「もうすぐはげですね」などいろいろあるようだが、これが傑作であろう。
さらに加えて都はるみの「大阪しぐれ」の替え歌「原発しぐれ」
https://www.youtube.com/watch?v=jviq_6Oiczo
だんだんせつなくなってくる。
さらに、いやみの閾にはいったアイロニーがつづく、かつての反戦歌「自衛隊にはいろう」の替え歌「東電に入ろう」
https://www.youtube.com/watch?v=_vl73V9eD6A
徹底したイロニーは、やはり忌野清志郎だ、福岡の電気ホールでやったらしい「原発音頭」
https://www.youtube.com/watch?v=K2baSCycSWk
ここまで来ると、ものごとの一義性にしか自覚の無い真面目な人は、清志郎は「原発反対だったのでは?」となる。イロニーの意味がわからない存在があるようだ。「原発賛成!」「九電万歳!」「原発推進!」と、すごいシンプルなイロニーであるが、主語制概念空間に覆われた者は、「賛成」と言っているのだから原発支持なのだろう、と解するほかなくなるようだ。終わりに「おまえらよくやるよな、ほんとに」という清志郎の自戒をこめたイロニーには脱帽。
サマータイム・ブルースやラヴミー・テンダーなど反原子力の歌は、発売停止にまでなったが。
原子力反対が、電気に乗って流れる、皮肉だとか、相反現象にたいする嫌悪が、「真面目な清潔主義」のファシズム感覚になっているのだが、これこそロックだ、というのもなじめない。
糞真面目な顔をして、目くじらたてて、正義ぶるものも、ファシズム的全体主義である。
イロニーの笑いと悲劇、現実のやるせないせつなさへ、日本も知性をもっていたのを知って、すてたものではないと、少し見直した。
だが、歌では、現象本質のをみごとに表象してはいるが、幻想技術はとけない。ずらしはずらしでしかない、2、3度聴いてあきられていく。しかし、こういう感性は、世界の民衆がもっている力だ。「笑いとばす」大事さである。
「感動」とはなにか?
2014.12.01 Monday | category:b:ホスピタリティ理論
JUGEMテーマ:学問・学校
感動とはいったいなんなのか。
当然ながらひとによって、それはちがうが、ある閾がつきやぶられたときに、感動は起きる。
他方、規範規則に従属している枠内の状態では、絶対的に感動は起きない。
このふたつから、みていくと、感動は「挑戦」と重ね合っているのがうきあがる。
先日TVで、金栗四三のはなしを知った。マラソン選手だ、マラソンの高地トレーニングを提唱し、いまの箱根駅伝を創始したひとりであるらしい。
彼は、オリンピックのストックホルム大会で金メダルを期待されていたが、40度の気候のなかで日射病にかかり倒れ、農家に救われ翌日目をさました。
それから、54年後、彼のところに、棄権が表明されていない、競技をなしとげないかとストックホルムから要請され、完走する。その結果のマラソン記録は、第5回 ストックホルム大会(1912年(明治45年)) - 一時行方不明
から、54年8か月6日5時間32分20秒3と正規に記録された。永遠に破られない最低記録であろうが、こういうはからいを、ひとつの感動といえる。ゴールし切った、金栗の笑顔は満ちていた。ルールを破っていない、ルール下にある処置だが、既存枠をはずさないとなされえないことだ。
柔道の井上康生が、不振からたちなおりオリンピックで金メダルをとった、亡き母の遺影をもって表彰セレモニーにでようとしたなら、表彰台へは何ももっていってはいけない規則だという。そのとき、関係スタッフが、服の下に隠してもっていけば、わたしたちは知らなかったということにする、とアドバイス。井上康生はジャンバーの下にそれを入れ、表彰台にたって、とりだし高々と遺影をかかげ、感動をよんだ。
こういうことは、付帯するエピソードではない、スポーツのある本質からしか表出しえない出来事である。
去年、楽天の田中投手が、優勝決定のマウンドにあがって、優勝を決めた。星野の偉大な采配のひとつであるが、日本シリーズを観るすべてのひとに、楽天の優勝は感動をあたえた。
かれらは、究極の挑戦をなしてきた、そのうえに表出していることだ。
(つづく)
浅田真央、その純真さと偉大さ
2014.03.02 Sunday | category:i:野球、スポーツ
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浅田真央の「笑顔」「スマイル」、それがみたい、みれればそれでいい、ということにおいて、何がこちらがわと真央自身におきているのだろうか?
超絶した彼女が、世界で感動をもたらしているのはなぜなのだろうか?
そうした問い自体さえ、無意味にさせていく力とはいったいなんであるのか。
くりかえしながれる、あのフリーの演技は、みればみるほど圧巻となった深みをわたしたちにあたえつづけていくのは、どうしてなのか。
真央自身が、自らをふりかえりはじめている。そして、この4年間の苦闘の日々の実際が、すこしづつはっきりと語られはじめている。昨日のフジTVの真央特集は、真央自身が自らの映像をみながら、語った貴重なものであった。
人は、現実に直面した時、そこに少しづつ、おもいのままにならない実際に、折り合いをつけて妥協をしていく、つまり不可能さに自覚と認識の根拠をさがし自己制限して、およそ、自分自身の限界へそれをなっとくさせていくものだが、真央は逆である。徹底して、三回転ジャンプ、そしてトリプルアクセスに挑戦していくことを放置も封印もしなかった。だれもなしえない閾への挑戦をやめなかった。
実際の大会においての成功率が、半々である、そこにおりあいをつけなかった。佐藤コーチも、一度たりとも封印等しなかった、無理だとおもわれたとき、とばなかったにすぎない、練習は一度たりとも回避等していないと述べていた。泣きながら練習しつづけたときもあったという。ジャンプで、流れがとまりがちなそこに、流れという連続の優雅さを形成していったのだ。
人が「純粋」であるということは、ふりかかってくる現実の規制関係をそこに加味しないということだ。フィギュアであれば、審査員たちの採点基準である。キムヨナは、そこを読んで、自分のベストの構成をつくった。それをつくりえることも、たいへんな能力であるが、真央はそこに計算をいれない、自分が挑戦している構成をひたすら完成させていく。失敗のリスクを回避しない。自分が演じられる最高度のものを、おりこむだけだ。それが、観るファンをひやひやさせるが、なされえたとき、こちらにどっと感動がもたらされる。
人は、社会関係や規制関係をうけて生きていく。自分がなしえないことを、知っていく。だが、真央は、それをしなかった。ただ、その一点である。だから、できなかったとき、スケートをやめたいと思った。トリプルアクセルをしないで、高得点の構成をなしうる力能があること、それは実際でさえ、証された。しかし、真央は、トリプルアクセルを回避する道を、すこしもやめなかった。依怙地、頑固、という性格をスケートでは、つらぬいた。
金メダルをめざしたのは、それが目的ではなく、そこに自分の完成度が実現されるからだ。だから、バンクーバーで、銀メダルをとっても演技が自分に完璧でなかったため、悔し涙をながした。ソチでは、メダルを取れなくても,フリーで完璧であったことに、自分で納得していた。ショートで失敗し、とりかえしがつかなくなって、メダルをのがした、その悔しさがあっても、それ以上に、自分がめざしたものをやりぬいたことを優先させている。
それを、わたしは、この子はすごい人だと称している。
それを、純粋さの貫徹、純真さの偉大さとたたえている。
それは、普通の人がなそうとしてもなしえないことだ。なそうとすると、ただ愚鈍になっていく。だが、真央による追求は、愚鈍さにならない、ただただ純粋なのだ。おとなびてきてはいるが、子どもの純真さのままの言動を、しっかりものとしてつらぬいている。
他者からの雑音や非難などにゆれうごかない。大人になれなどということは、無意味である。
純粋は、形而上学的にしかなりたたないことを、真央は実際において、ながいスケート人生の中で、ひたすらつらぬいた。人は失敗するものだ、と一般知を自分へむけて体験的に知っていても、それを制約条件にはいれていない、まったく別次元で動いていく。凄まじい、あくなき練習の努力。
ショートでは、新しい曲に挑戦すべきであって、過去の曲のくりかえしをすべきではなかった、また、基礎からのやりなおしなどすべきではなかった、真央はただ新たな挑戦へ新たな地平へと道をひらいていくひとであるべきであった、といってみてももうはじまらない。素直にローリーの提案のノクターンをうけいれ、素直に佐藤コーチの指導をうけいれた。タラソワの飛躍への提起に、見事にこたえていった。ラフマニノフに打ち勝った。
もう、身体成長の変化も、さほどのことではない閾へはいっている、あと4年、真央が真央である可能性が、真に開花するときになるのかもしれない。だが、体力との戦いが、そこにはまちうけていこうが、なにかもう自分との戦い以上のなにかが、そこにはあるようにおもわれる。
世界選手権では、完璧さが達成されるかもしれないが、そこから真央の挑戦が、またはじまることを、ファンは待ち望んでいる。女王らしく、登場していくのを。
毎回の大会はしばしやすんで、それはもう回避ではないのだから、円熟した演技をみせてほしい、とファンは願う。